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・・

 投稿者:山田  投稿日:2017年11月21日(火)21時58分5秒
返信・引用
  ・・宿神のあらわれは翁であろう。

・・温泉ではよくあることだ。

「蕉門正風の俳道に志あらん人は、世上の得失是非に迷はず、烏鷺馬鹿の言語になづむべからず。天地を右にし、万物山川草木人倫の本情を忘れず、飛花落葉に遊ぶべし。其姿に遊ぶ時は、道古今に通じ、不易の理を失はずして、流行の変に渡る。・・云々」翁申給ひき。

山中温泉にて、翁と北枝。

・・発句は発句の姿あり。平句は平句の姿有。

・・
 
 

ミシャグチはユダヤとの関連が・・・

 投稿者:憂い  投稿日:2017年11月16日(木)19時04分14秒
返信・引用
  ミシャグチはユダヤとの関連があるという ことで調べ始めたのだが、
、「ミシャグチ」とは、ヘブライ語で「イサクの犠牲」http://mabumaro.tumblr.com/post/93638664331/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B0%E3%83%81%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%83%98%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E8%AA%9E%E3%81%A7%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%81%AE%E7%8A%A0%E7%89%B2
柳田國男の「石神問答」、中沢新一の「精霊の王」でミシャグチのことを調べているのだが、柳田は民俗学の祖と言われるだけあって地名と神の関連に拘り、中沢は宗教学者の側面から天台のややこしい教条を持ちだして来る。誰にも解明できないとされているミシャグチを音韻で解明しようとした柳田のやり方は正しいと思うのだが、その彼をもってしても解決できなかった。中沢はその「精霊の王」で新しい解釈を目指している。ミシャグチは宗教学、民俗学、考古学という垣根を取り払って考えなければ解明できないだろう。
「主は言われた、『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』」

イサクの犠牲はイサクの燔祭(はんさい)とも呼ばれ、旧約聖書の物語の一つです。 ある 日、アブラハムは息子イサクを生贄にせよ、と神託を受けました。http://mementmori-art.com/archives/16528864.html
この写真は、「四隅袖付炉」というが、四隅にある丸い小さな石が男性の象徴である。
これが柱の原型である。「はし」とか「はしら」とは、古代の言葉で、異界のものを繋ぐといういみである。
石棒やその変形としての柱は、私たち人間と世界と天なる神の世界を繋ぐ・・・ まあ言うなれば、 繋(つなぎ)の神と言えるのではないか。
猿田彦はそういう繋(つなぎ)の神であろう。炉は、女性のあれがその象徴であるが、地の神(地母神)の象徴でもある。
炉と柱、つまり地母神と繋(つなぎ)の神の関係はまことに大事であって、七夕の再魔術化に当たっては、多分、そのことを哲学的にというかより深く考えねばならない筈だ。
野生の神々http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/onnahohitu01.pdf#search=%27%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B0%E3%83%81++%E3%83%98%E3%83%96%E3%83%AB%E8%AA%9E%27
シャグジは境界性の意味をおびた神々である。境界というもののはらむ霊威が、そのような名前で表現されたのである。
そして、この境界性を通じて、 芸能の徒の神である「宿神」は、全国に広く分布するミシャグチやシャグジとつながっている。
シャグジが道祖神などと重なり合った性格をおびているのもその ためで、境界の隙間からわきあがってくる災いや危険を、こちらの世界に入れまいとして境界を塞ぐ「ソコ」の神である道祖神も、もとはといえばシャグジと同じ境界神の一種だからなのである、と。

 古峯神社は関東では三峯神社と並び称される修験道 場である。日光を開いた勝道上人の修行の場としても有名であるが、その勝道上人が最初に修行したのは、実は、下野の薬師寺である。
下野の薬師寺は、当時、 九州の観音寺と奈良の東大寺と伍した全国スケールの戒壇院で、藤原氏との繋がりが極めて強い。その点で徳一との関係が気になる。
多分、私の直感では、行 基、良弁、勝道、徳一、空海、明恵は見えぬ糸で結ばれている。
東大寺と興福寺、或いは華厳宗と法相宗のくり出す糸である。
その糸は、華厳哲学と唯識論と 言って良いのかもしれないが、その奥には「スピリット」が・・・・きっと働いているに違いない。
 

・・

 投稿者:山田  投稿日:2017年11月14日(火)14時42分24秒
返信・引用 編集済
  木枯らしに岩吹きとがる杉間かな

 奥三河鳳来寺で芭蕉が詠んだ。

・・日本列島の中央構造線ができたのは約66百万年前。白亜紀末で恐竜絶滅と同じ時期。この中央構造線は鳳来寺山を通過する。

鷹一つ見付てうれしいらご崎

・・伊良湖崎も中央構造線が通過する。

行春にわかの浦にて追付たり

・・和歌の浦も中央構造線が通過する。


>「中央構造線上に展開した南朝方は山民を味方につけ、平野部に展開する武家方とたたかった。」

・・

分杭峠(ぶんぐいとうげ)は、長野県伊那市と下伊那郡大鹿村との境界に位置する標高1,424mの峠である。

北緯35度41分58秒 東経138度04分01秒

・・ここも中央構造線が通過する。

杖突峠から諏訪へ。上社前宮を通過する。

・・

明応地震

室町時代後期(戦国時代初期)に発生した地震である。南海トラフ沿いの巨大地震(南海トラフ巨大地震)と推定されている。
記録にある被害分布が安政東海地震に類似しており、震源域は東海道沖と思われるものであった

・・安濃津港が津波で壊滅。

鹿島神宮

・・ここも中央構造線が通過する。

要石 ・・茨城県の鹿島神宮にある神石。根が深く、地震を鎮めているという。 「ゆるぐともよもや抜けじの-/浄瑠璃・用明天皇」

http://www.squarenet.co.jp/column/prose/window/window_322.htm
 

・・

 投稿者:かぐ山のはなこ  投稿日:2017年11月 6日(月)19時51分38秒
返信・引用 編集済
  ・・湛の木

峯湛(諏訪七木)
三道巡礼共に山路をへて往行三日五日を送る、廻神と稱(称)して村民是を拝す、戌亥子(いぬ・い・ね)三ヶ日の神原(ごうばら)并(なら)びに人屋の神事又是を略す、丑日、先ず峯多々江(みねたたえ)、其の後前宮の神事、神使二手外縣・内縣御しずまり、落花風にひるがえり山路雪をふむ、職掌(しきしょう※神楽男)鞍馬金銀の荘厳無雙(双)の見物也、
『諏方大明神画詞』

>・・ 諏訪神社は前宮・上社・下社という三つのカテゴリーで出来ています。このうちで前宮が最も古い信仰形態を残しています。茅野市にありますが、「大祝=おおほおり」という諏訪の信仰の頂点に立つ神官がいましたが、これを補佐する「ジンチョウカン」「神長官」がいました。

 これを代々勤めてきたのが「守矢」という一族でした。この守矢一族がお祀りしている神が「ミシャグジ」の神様です。

 「神長官記念館」の奥にミシャグシの御本体があり、上諏訪・下諏訪にかけて、沢山のミシャグシと呼ばれる神様があります。

 この神様はある特徴を持っていて「湛の木」という植物の根元に神様がいて、この御神体は、かつては石棒が置かれ、そして石皿が置かれていたことが記録に残っています。

http://bunarinn.lolipop.jp/bunarinn.lolipop/index-2/Llipopbunarinn/hujimi/toukai/hujimayutuki/hebi/4/mondou.html

・・諏訪湖を中心として展開した文化は長いスパンで展開し、弥生時代から出雲系の人々が入ってきて、諏訪の諏訪神社を中心とした文化が造られる。そして、中世に入ってきて諏訪市を中心にした文化が展開して、何層もの文化が展開しているように見えるけれども、この地帯は、藤森氏は明確に捉えていたようです。

 天竜川沿いから諏訪を巡って、岡谷から諏訪湖を経て、八ヶ岳山麓を越えて、山梨県の領域に入っていく。

 この大きな文化圏の中で、文化的な連続性があったと考えていたようです。


●富士眉月弧文化圏

> 凡そ、5,000年~4,000年前のこの時代、

 同じような居住に住み、同じ石器でもって雑穀農耕を営み、同じ土器を使い、

世界観と神話の伝承を共有し、言葉と風俗習慣を同じくする民族文化は、中部高地から西南関東に広がっていた。

 甲府盆地を中心として東と西に両の眉を連ねたような地帯。

富士はその左眼に見立てられ、右眼には諏訪湖が当てられる。その頃、諏訪湖は汚れ無き大地の瞳。富士もその頃、概ね今日の姿に近い山容を整え、断続的な噴火活動を繰り返していたという。

 月は西に生じ、日は東に出づ。日月の起源神話では、左眼が日、右眼が月。そして火気の精なるものが日、水気の精なるものが月であった。

 富士と諏訪湖は、この理にもかなっている。


・・釈迦堂遺跡もこの文化圏に入るか。

奥多摩沢井の遺跡で発掘された石皿も石神信仰か。

・・
 

Re: ・・

 投稿者:憂い  投稿日:2017年10月31日(火)12時20分38秒
返信・引用
  > No.4155[元記事へ]

かぐ山のはなこさんへのお返事です。

「九曲回腸」
「曲水」 黄河の治水の測量作業を思わせます。
 水がすーっと流れる 口から気が滑らかに出る 喜ぶ
雖無絲竹管絃之盛,一觴一詠,亦足以暢敘幽情。

觴(さかずき)を流すための「曲水」を作り、人々はその傍らに順序よく並んで坐った。
琴や笛のような音楽はないが、觴がめぐってくる間に詩を詠ずるというこの催しは、心の奥深い思いを述べあうのに十分である。

私的に觴(さかずき)を流すための「曲水」は、黄河の治水の測量作業を思わせます。

昔の中国では〈水〉は川のことを指しました。中でも〈河〉は黄河のこと。中国の興りも、世界各地で見られる洪水伝説に求めることができ、中心的な登場人物である鯀(こん)と禹(う)の親子は、実は亀を信仰する部族と龍を信仰する部族の対立と勢力移譲だという説もあるそうです。http://www.mizu.gr.jp/bunkajuku/houkoku/006_20120621_ryutokame2.html
治水の治という字は、政治の治でもあります。サンズイに旁(つくり)が台になっています。台は「イ」というような発音です。口の上に片仮名のムのような記号が書いてありますけれど、口から気が滑らかに出るというような意味を表わす字のようです。立心偏をつければ気持ちがノビノビとする、喜ぶ、というような意味になり、サンズイがつくと、溜まっている水がすーっと流れる、というような意味を表わします。ですから治水の治というのは、元来、〈疏方式〉に合った言葉です。
親水思想を具体的に表わした例としては、353年(東晋の永和9年)紹興(会稽)にある蘭亭で行なわれた曲水の宴が有名です。王羲之や孫綽などの名門貴族が集まって、水の流れに盃を浮かべ、盃が自分の所にくるまでに詩を詠む、という遊びです。老荘思想に拠りながら、自らの感懐を水の流れに同調させ、美的世界に凝縮させています。

觴(さかずき)
觴・・・角度?  矢(や)+人の変形+昜ヨウ(あがる)・・・堕羽人(堕天使)?

「曲水」 http://8628.teacup.com/toraijin/bbs?



> ・・・・・・・・暮春之初會于會稽山陰
> 之蘭亭脩禊事也群賢畢至少長咸集此地有
> 崇山峻領茂林脩竹又有清流激湍暎帶左右
> 引以爲流觴曲水列坐其次雖無絲竹管弦之
> 盛一觴一詠亦足以暢叙幽情
>
>
> https://www.youtube.com/watch?v=TP9PO5tycgI
>
>
 

・・

 投稿者:かぐ山のはなこ  投稿日:2017年10月29日(日)23時55分17秒
返信・引用 編集済
  ・・・・・・・・暮春之初會于會稽山陰
之蘭亭脩禊事也群賢畢至少長咸集此地有
崇山峻領茂林脩竹又有清流激湍暎帶左右
引以爲流觴曲水列坐其次雖無絲竹管弦之
盛一觴一詠亦足以暢叙幽情


https://www.youtube.com/watch?v=TP9PO5tycgI

 

>東に長、西にも長、真ん中には馬の大王……

 投稿者:憂い  投稿日:2017年10月24日(火)15時59分10秒
返信・引用
  国の力を表わす地図
やがて農耕がはじまると、土地を耕したり用水路を作ったりするために大勢の人々の協力が必要になりました。指導者の下で多くの人が働くようになり国家が成立します。すると、人々が争わないように耕地の境界を定めたり、公平に課税するために、土地が測量され地図に記録されるようになりました。これが地籍図のはじまりです。移動のためではなく、領地を示し宣言するための地図です。バビロニア(現在のイラク)では粘土版、エジプトではパピルス(英語の「ペーパー」の語源)という植物の葉を編んだもの、中国では絹に描かれていました。
中部太平洋のマーシャル諸島には、貝殻とヤシの繊維を編んで島と航路や海流を表わした海図がありました。外洋を航海できる大型カヌーで島々を行き来していたのでしょう。アラスカに住むイヌイットは、流木を削って海岸線の目印を記録しました。狩りに出て迷わないためです。洞窟の壁面に描かれた絵地図は世界各地で発見されています。現在まで残っているものはわずかですが、人はさまざまな手段で空間を絵に表わしてきました。しかしそれは具象的な(写生のような)絵画ではありません。関心のある事物だけを記号に抽象化して描いているのです。人は地図を発明したのです。
日時計で地球の大きさを測るhttp://atlas.cdx.jp/history/ancient.htm
“ナイル川上流のシエネでは夏至(北半球で昼が一番長い日、6月22日ごろ)の日に井戸の底まで太陽が差し込む”旅人の話からこのことを知った彼は、あとは同じ日のアレクサンドリアでの太陽高度と、シエネまでの距離を調べるだけでした。太陽高度は日時計として使われているオベリスクと呼ばれる石の塔が作る影を測って、天頂から7度12分と求めました。

点が1つ天を舞い、黄河の両岸に湾がある。言の字は中で左に払い、右にも1本。東に長、西にも長、真ん中には馬の大王……」
56画の中国の漢字「ビィアン」https://matsuoyuki.jp/2014/10/26/number-of-strokes-kanji/


月←(長さ 糸 測る   →リ・・・

言・・・天・・・北極星

馬・・・緯度?
午は7番目の うま なので 南 nを意味します。つまり 子午線 とは 南北線 のことです。
地球に線を引くhttp://atlas.cdx.jp/history/ancient.htm

子・・・堕天使・・・アヌンナキ(シュメール語で「天より地に降り来たりし者」の意)


「囱ソウ」 <まど> と 「窓ソウ」 と 「悤・忩ソウ」http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/088c7ba4f0d4a767b4043cb932720fec
、「囱⇒ム+心」に変化した形。
怠ー口
怠 タイ・おこたる・なまける  http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/40334e1d50763cb0661e877626a8b32b
「怡怡イイ」(なごやかに楽しむさま)


辶・・・道・・・未知 ・・・進むトリ(有羽)?
アヌンナキ(シュメール語で「天より地に降り来たりし者」の意)

バビロニア天文学http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2515

鳥の豊猟と魚の秘密とを、豊富な収穫をあなた方に下されましょう。
ウトナピシュティムへの道http://www2.tokai.or.jp/shaga/atorantis/sub25.htm
『葦屋よ、葦屋よ。壁よ、壁よ。葦屋よ、聞け。壁よ、悟れ。
シュルッパクの人、ウバル・トゥトゥの息子よ、家を壊し、方舟を造れ。
持ち物を放棄し、生命を求めよ。財産を厭い、生命を生かせ。
生命あるもののあらゆる種を方舟に導き入れよ。
あなたが造る方舟は、その寸法が測られるように、その長さと幅とが等しいように。
 

夂、チ

 投稿者:かぐ山のはなこ  投稿日:2017年10月21日(土)15時36分38秒
返信・引用 編集済
  ・・くだる。降りる。
おくれる。後から行く。

部首 ふゆがしら

>・・夂字は『説文解字』によると「後から行く」の意味であり、人の両脚「ク」に「乀」を入れることで後に送りとどけるものがあることを表した指事文字であるという。

几 キ つくえ

つくえ。
ひじかけ。

・・

点が1つ天を舞い、黄河の両岸に湾がある。言の字は中で左に払い、右にも1本。東に長、西にも長、真ん中には馬の大王……」と絵描き歌のように唱えながら



「幻」の本字。「予」の逆さ文字になっている。

予とは、機織り機の、縦に張った糸の間に横糸を通すときに使う糸巻き「杼(ひ)」の原字。それを上下逆さまにした字が現在「幻」という字になって残っています。

『幺(ヨウ)』yāoは、小さなものを表す象形文字です。漢字の部首は『幺・よう』、漢字の意味は『小さい』、『おさない』です。細い生糸の束(たば)を描いたもの(藤堂・白川)とも、生まれた乳児の象形(説文解字)とも

『幻(ゲン)』huànは、糸の端がかすかに見える様子・幻(まぼろし)を表した会意文字です。幺(少し)+勹(かすかに揺れる)=幻(糸の端がかすかに見える形。かすか。

・・現実でないことを心に思い描くことを幻想(ゲンソウ)、人の目をくらます不思議な術を幻術(ゲンジュツ)といいます。

http://huusennarare.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-d8ec.html

・・
 

薪荷雪間市川

 投稿者:かぐ山のはなこ  投稿日:2017年10月21日(土)00時33分23秒
返信・引用
  ・・
足柄はマサカリかついだ金太郎。
ヤマトタケではないか。


山姥も打か月夜の遠きぬた
 

>「経もなく緯も定めず」

 投稿者:憂い  投稿日:2017年10月16日(月)20時35分15秒
返信・引用
  経緯という言葉の語源https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1036166095?__ysp=57WM57ev44Go44GE44GG6KiA6JGJ44Gu6Kqe5rqQ
「織物(おりもの)」の「縦糸」と「横糸」から出来た言葉です。
どんな色の糸を使っているのかが明らかになれば、模様も納得できます。
そこから、「物事の筋道」「顛末(てんまつ)」を表すようになりました。
・・・・
【顛末(てんまつ)】
=事の最初から最後までの事情。一部始終。

格子線および経緯線とはhttp://desktop.arcgis.com/ja/arcmap/10.3/map/page-layouts/what-are-grids-and-graticules-.htm
経緯線とは、地球の緯度を示す緯線および経度を示す経線です。

地図を経線と緯線で区切って、その座標で各地点の位置を表すという発想は古くから存在した。古代に地球の大きさを求めた地理学者エラトステネスは、シェネ(アスワン)とアレクサンドリアを結んだ線を基準として、それと平行に数本の直線を引いた地図を作成した[1]。ただしこの線の間隔は現在の地図のように等間隔ではない。また、基準としたシェネとアレクサンドリアも現在の観点からいえば同一子午線上にはなく、およそ3度ほどずれている[1][2]。その後、紀元前の天文学者であるヒッパルコスは、地球を360分割した経線と緯線で表し、さらにその分割した1つの区間(1度)を60分、さらにその1分を60秒で表すといった、現在のような等間隔の経緯線網を使った方法を考案した[3]。
経度の歴史https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E5%BA%A6%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
また同じ頃、中国でも経度の概念が生まれた。プトレマイオスと同じ時代に活躍した張衡は、地図上に縦横の線を延ばしてその座標で距離を求める方法を考え出した。これは、地図を絹織物に刺繍する際に、縦糸と横糸が交じり合うさまを見て思いついたといわれている[7]。また3世紀になると裴秀も同じように縦横の線で位置を示す方法を提案し、その2つの座標にそれぞれ「経」「緯」という文字をあてた[8]。

張 衡(ちょう こう、78年 - 139年)は後漢代の政治家・天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家・文学者・詩人。字は平子。南陽郡西鄂県(現河南省南陽市臥竜区石橋鎮)の人。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E8%A1%A1_(%E7%A7%91%E5%AD%A6%E8%80%85)
平子
平子氏居城磯子 城https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AD%90%E6%B0%8F

「越後平子系図(平子系図)」http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tairako.html
平子氏は相模国の豪族三浦氏の一族で、平安後期に武蔵国久良岐郡に進出した三浦為長の子次長(通継?)が久良気(久良岐)三郎を称し、叔父の景通は平子民部大夫を号している。次長が久良気を称したことは、久良岐郡の大部分を治めていたことを想像させるものである。
 平子氏の名字の地となったのは久良岐郡内の平子郷で、久良岐郡衙の管轄地のひとであったようだ。

越後平子氏は南北朝期の足利氏内紛から上杉氏の時代に移行する 段階で常に天下の情勢を把握して動いた。
横浜から消えた海民氏族http://rekitabi1192.blog.fc2.com/blog-entry-77.html
この氏族の出自は二説あって、三浦氏の一族とも八王子辺を本拠とする横山党の流れとも言われるが最終的な結論は出ていない。
三浦半島を北上しようする三浦氏と武蔵国北部から南下して海岸部へ進出しようとした横山氏が何らかの関係で結ばれたのが平子氏ではないかと云われている。

磯子が鎌倉に対して鬼門の方角に当ることで都の怨念鎮護の役割を担ったのではないか?
真照寺の本尊毘沙門天はその要であった。
同じ方位の二階堂永福寺、荏柄天満宮、証菩提寺(この寺は頼朝が鎌倉鎮護のため造らせたといわれる)、久良岐郡杉山神社、平子氏自らが創建した岡村天満宮、州乾弁天など鎌倉に連なる一連の社寺がその鬼門域に含まれていたのではないか・・・とも氏は言われる。

実際 新潟に足を踏み入れると「白山」「物部」「出雲」に関する神社が多かった。
日本書紀は古い時代の地方名として越(こし)・越洲(こしのしま)を記す。https://ameblo.jp/taishi6764/entry-12148556843.html
古くから交易や交流などはあったもののヤマト王権の勢力が十分に及ばない日本海側の地域であり、紀元前の孝元天皇の第1皇子、四道将軍の大彦命に平定される前の「越」は諸豪族(豪族阿彦など)に支配されていたと推定されている。

八岐大蛇は「古志(こし)」より来るとされていて、これは「越」のこととも、出雲国古志郷のことともされる。

「高志之(こしの、コシ-の)」の解釈にも諸説あり、例えばこの当時、出雲国は越国(北陸地方)との交戦状態にあり、『出雲国風土記』には意宇(オウ)郡母里(モリ)郷(現・島根県安来市)の地名説話で「越の八口」の平定の記載があるため、出雲と越の勢力争いをヤマタノオロチ神話の原型や土台とする説がある。

はるか太古の昔、現在の新潟県に「越」という古代国家があり不思議な緑色の石をもつ奴奈川姫という美しい姫が国を治めていました。当時から「越」は美しい玉を産し、各地との交易で栄えた豊かな国でした。
ある時、出雲の国の大国主命が、この国の美しい玉と奴奈川姫の噂を聞き、大国主命は「越」の国に出向き、姫を妻にしたといいます。

大己貴命(大国主)は出雲から舟で能登に入り、国土を開拓したのち守護神としてこの地に鎮まったとされ、古くから北陸の大社として知られる。


ちょう こう ちやうかう 【張衡】
(78~139) 中国,後漢代の文人・天文学者。文才にたけ,詞賦をよくした。天文においては渾天(こんてん)説を明確に論じ,渾天儀(天球儀)や候風地動儀(地震計)などの機器を考案。円周率の近似計算でも知られる。

張衡Zhang Henghttp://www.weblio.jp/content/%E5%BC%B5%E8%A1%A1
チョウコウ
(チヤウカウ)
字は霊真《張魯伝集解》。沛国豊の人。張陵の子、張魯の父《張魯伝》。
京師で出生したという。ただならぬ才覚の持ち主だったので、詔勅によって黄門侍郎に徴し出されたが、世を避けて陽平山に隠居した。忠孝を誓って民衆を導き、見識ある人々は「かの人は宗門を継承されてから、俗人を受け入れて善行を推奨した功績がある」と称えている《張魯伝集解》。
熹平年間(一七二~一七八)末期、父張陵が大蛇に呑み込まれたので、駆けずりまわって亡骸を探したが見つからず、崖の上に石を置いて目印とし、霊験を現して鶴に変化したのだと言った。光和二年(一七九)、父張陵が「正月七日に昇天いたすゆえ、張衡が天師を継承せよ」という遺書を残し、雲に乗って昇天したので、張衡が教団を引き継いだ《張魯伝集解》。
張衡が亡くなると、子の張魯が引き継いだ《張魯伝》。張衡の妻は色香があり、巫術師として劉焉の家に通っていたという《後漢書劉焉伝》。

>熹平年間(一七二~一七八)末期、父張陵が大蛇に呑み込まれたので、駆けずりまわって亡骸を探したが見つからず、崖の上に石を置いて目印とし、霊験を現して鶴に変化したのだと言った。

熹平(きへい)は、後漢の霊帝劉宏の治世に行われた2番目の元号。172年 - 178年。熹平7年は3月に改元されて光和元年となった。http://www.weblio.jp/content/%E7%86%B9%E5%B9%B3

熹平癸 丑ノ歳トナス、漢人志シテ、卑弥呼新羅ニ通聘スト云フモノ是ナリ、https://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/bcygobf9qoc0aha4ac9a5a4ada4jbfmbd8a4dea4la1aa/1/207406

熹平七年(178年)作の半円方形帯神獣鏡は、張角が 建寧年間(168~171年)に太平道の布教を始めた以降の製作になる。http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/aeb2d51f6dd0c5abe60c1e0fe0e5be6b
神獣鏡の実相
 鏡の製造は「夏至の日」に着手した
 中国人研究者の任晏東氏から得た情報によれば、もともと中国では、鏡の製造は夏至の日に着手したのだという。これは、鏡に限らず刀剣などの金属器をつくるに際して、夏至の日が太陽から火を採る最適と考えられていたことによるらしい。
 仮に景初3年銘文入りの鏡は、卑弥呼に贈るために、魏の尚方(官製工房)で製作されたとしよう。官製工房が鏡づくりの信仰的しきたりを破るとは考えられないから、夏至の日に製作されたはずである。すると景初3年説でいえば、卑弥呼の使者の難升米たちが帯方郡の役所に飛び込む6月前後に、「卑弥呼に贈るための景初3年鏡」が製作されていた計算になる。こうなると「時空を超えたミステリー」である。

 「五月丙午」と夏至の関係
 魏晋代に製作された鏡をみると、「5月丙午(ひのえうま)の日に製作した」というのが目につく。五月丙午といえばまさに盛夏、旧暦でいえば夏至の日あたりに相当する。5月丙午は一種の吉祥句ともいわれるが、厄日に造ったことが逆に厄払いになるといった迷信でもあったのだろう。「5月丙午」が吉祥句とされるほどに、夏至の日の太陽光から火を採ることが、精神文化上、信仰上の決まりごとだったことがうかがえる。まさに、「鏡の製造は夏至の日に着手した」という意見に通じるものがある。

夏至の日以外に製作された鏡
 鏡の製作日にも奇妙な現象がある。
 後漢末になると中原・魏での鏡製造は明帝の代に再開されるまで数十年間中断された状態で、蜀や呉などの地域では盛んに製造されていた。後漢末は、天師道や太平道が誕生した一大宗教改革の時代でもある。この時期に製造された後漢鏡の記年鏡をみると、春から冬まで色んな季節に製造されている。これは大ぎょうにいえば、「夏至の日につくる」という原則の崩壊である。
 こうした現象の背景の一つとしては、張魯の天師道や張角の太平道(黄巾党)など、鏡を神宝とする宗教組織が短期間に爆発的に信者を増やしたことから、年に一度の夏至の日の製造では鏡の供給が追いつかなかった事情が横たわっていると私はみている。この推論を裏づけるような記録を、「三角縁神獣鏡の話」というサイトも紹介している。
 「後漢末の混乱で首都・洛陽の周辺は荒廃し、鏡の製造はかなりひどい状況だった。後漢鏡の中でも建安年間(196年以降から後漢の滅亡の220年 まで)の鏡は、洛陽の官製工房ではなく(三国時代にいう)蜀の領域や呉の領域で生産されている。 後漢の後半から末にかけて長江流域には鏡の製作工房が多数あったらしく、後漢末の混乱期において首都・洛陽の周辺が荒廃した時代は、長江流域のほうが鏡の製造は盛んだった。中でも盛んだったのは広漢西蜀と呼ばれる地域で、神獣鏡が盛んに作られている。また、のちに呉の領域に入る長江下流域でも盛んにつくられているが、神獣鏡の形式・図案・模様などは呉鏡の特長だとされる。魏都・洛陽での鏡づくりは明帝の時代(230年代)にならないと復活しない。後漢末の中断から、およそ30年 から40年の空白がある。復活したての段階で作られたのが、青龍3年の年号が刻まれた方格規矩鏡だろう」。
http://plaza.harmonix.ne.jp/~onizuka/Sankaku.html#detail

 中国古来からある支配層の信仰的精神性を反映した天円地方・四神・北斗の星を描いた青龍3年の方格規矩鏡と、天師道思想(神仙思想)を反映した景初3年銘文入りの三角縁神獣鏡とでは明らかな違いがある。また銘文を見ても、魏皇帝のご用達鏡に神仙思想的吉祥文を入れることはない。
 銅鏡コレクターの森田昇龍氏によると、神獣の図柄を用いた鏡の圧倒的大多数が呉の領域から出土するという。そもそも神獣をモチーフとした図柄は、体制側の歴史書たる『三国志』が邪教扱いして「鬼道」と書いた初期道教(天師道)の精神思想を反映したものである。

魏志倭人伝』に卑弥呼は邪馬台国に居住し、鬼道に事(つか)えて人々を惑わしていた という(「卑彌呼事鬼道能惑衆」)一説が ... 文中にある鯨面文身は江南地方の習俗で あり、稲の伝来とともに刺青の習慣がもたらされたといいます。 ... 鬼道」という言葉は『 三国志』の倭人条以外に、『魏志』張魯伝に二回、『蜀志』劉焉伝に一回触れています。
.卑弥呼ー文身ー鬼道 http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index196.htm
三韓は一世紀から五世紀にかけての、朝鮮半島南部に住した種族とその地域をいいます。朝鮮半島南部に居住していた種族を韓といい、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる、馬韓(百済)・弁韓(任那)・辰韓(新羅)に分かれます。南北朝時代から唐にかけての中国では、百済、新羅、高麗(高句麗)の三国を三韓と呼ぶ例があり、『日本書紀』もそれに倣っています。三世紀当時の韓族社会は整然と統一されておらず、村落共同体的な社会であったとされます。馬韓(百済)の民族と通交していたことがわかります。

(荊の紀氏の日本古代史掲示板より)。
陳寿が卑弥呼の巫術を「鬼道」としたのは、中国の帳魯が創始した道教(五斗米道)を指していたといいます。「鬼道」という言葉は『三国志』の倭人条以外に、『魏志』張魯伝に二回、『蜀志』劉焉伝に一回触れています。ここに、張魯の祖父の張陵は巴蜀(はしょく。現在の四川省で巴は重慶、蜀は成都)の五斗米道の創始者であり、父の張衡と張魯はその後を継いでいたことや、盧氏の母は鬼道(巫術)に長けた美貌の持ち主であることが書かれています。つまり、卑弥呼の「鬼道」は張魯の道教に類似していたのです。あるいは、『史記』封禅書の文から、卑弥呼の「鬼道」は道教的なものではなく、越の俗人が信仰した「鬼神」であり、人々を惑わしていたというのは制御ということで、人々を治め操っていたとする説もあります。(『日本の古代』1、一五八頁)。ただ道教的信仰は二世紀末から三世紀前半の鏡に、東王夫・西王母を鋳した方格規矩鏡が、福岡県糸島市の井原鑓溝墓で出土していることから、道教の神仙思想に基づく信仰が日本に導入されていたのは事実です。また、卑弥呼が用いた鬼道の鬼は、朝鮮語でクイ(kui)と発音し、また曙光をピョックイ(pyotkui)とクイが同音であることから、光の意味の発音を吏読字で鬼と表現したといいます。ピョッ(pyot)は陽の意味で、クイ(kui)は銅のクリ(kuri)の発音からr音が脱落してクイとなります。金はクチ(kuti)と発音します。これは、祖語がクッ(kut)で語根がクル(kul)となります。つまり、鬼道の鬼の字義は黄金色に輝く光の存在や金や銅の輝きであり、朝日をピョックイ(曙光)という太陽信仰といいます。鬼道は明図(ミョンド)といわれる銅鏡と同じように、「光が導く」という意味になるといいます。明図の図は道や導と同音で、明図は明りが導くという意味といいます。(荊の紀氏の日本古代史掲示板より)。
 

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